The Liminality of Fraud: Reimagining Fraud Theory to Inform Financial Crime Prevention(詐欺のリミナリティ―金融犯罪予防に資する詐欺理論の再構想)
Nicola Harding, Emily Cooper, Tony Sales, Andy McDonald, Sarah Kingston
要約
英国・ランカスター大学のNicola Harding先生らによる論文「The Liminality of Fraud: Reimagining Fraud Theory to Inform Financial Crime Prevention」(『British Journal of Criminology』2025年掲載)は、元詐欺師・元警察幹部・研究者・実務家が共同で執筆した理論論文です。本研究は、従来の「不正のトライアングル」など個人の動機に注目してきた詐欺理論に対し、文化人類学の「リミナリティ(境界性)」という概念を導入し、詐欺師が意図的に誰の所有物でもない曖昧な空間を狙って犯行に及ぶ様子を理論化しています。請求書詐欺とロマンス詐欺という2つの事例を通じて、被害者が知らぬ間に企業を狙う「共犯者」に転じてしまう新しいプロセスも明らかにし、最終的に状況的犯罪予防の枠組みを用いた具体的な防止策を提案しています。
研究方法
本研究の最大の特徴は、その執筆体制そのものにあります。著者陣には、詐欺研究の学者だけでなく、国際的な規模で詐欺を実行した経験を持つ元詐欺師、英国・米国で詐欺捜査を率いた元警察幹部、そして現役の詐欺防止の実務家が名を連ねています。さらに、英国・欧州・オーストラリア・ニュージーランドで活動する詐欺・金融犯罪対策のソリューション提供企業にも助言を求めました。
こうした体制は知の共同生産(co-production)と呼ばれる方法論に基づいています。研究チームは3年間にわたり、ワークショップ形式でマインドマッピングや実際の詐欺防止事例の検討を重ねながら、理論を組み立てていきました。特筆すべきは、元詐欺師の持つ知識が誰が正当な専門家として認められるかという学術界の力学のなかで軽視されがちである、という問題意識です。論文では、警察官や研究者の肩書きには自然と権威が与えられる一方で、実際に詐欺の手口を最も深く理解しているはずの元詐欺師の知見は正式な専門知として扱われにくいことが指摘されています。本研究は、この構造に意識的に抗いながら、実務経験に基づく知見を理論構築に正面から組み込んだ点に方法論的な独自性があります。
理論的な土台としては、文化人類学者ヴィクター・ターナーらが用いたリミナリティ概念を応用しています。リミナリティとは、通過儀礼のように古い状態を離れたが、まだ新しい状態には到達していない宙ぶらりんの状態を指す言葉です。研究チームはこれを、二つの明確な領域の境界にあり、どちらにも完全には属さず、明確なルールや所有者を持たない誰のものでもない空間(no man’s land)という意味で用いています。
この研究でわかったこと
詐欺は「圧力・機会・正当化」だけでは説明できない
これまでの詐欺理論の主流は、1950年代にドナルド・クレッシーが提唱した不正のトライアングル(Fraud Triangle)でした。これは、人が不正を働くには;
(1)誰にも言えない切迫した資金問題という圧力
(2)それを解決できる機会
(3)自分を納得させる正当化
の3つが揃う必要がある、という理論です。その後、この理論には実行能力を加えた不正のダイヤモンドや、傲慢さを加えた不正のペンタゴンなど、要素を継ぎ足す形で発展してきました。
しかし本論文は、これらの理論に共通する2つの前提そのものに疑問を投げかけます。第一に、これらの理論はもともとは誠実に働いていた人物が、やむを得ない事情で不正に手を染めてしまうという、いわば内部者の裏切り型の詐欺を想定しています。第二に、その裏切りは環境的な圧力によって引き起こされる、という前提です。しかし実際には、最初から詐欺を働く機会を能動的に探し求める組織犯罪者が数多く存在します。著者らは、既存の理論がこうした最初からプロとして詐欺を計画する加害者を十分に説明できていないと指摘します。
詐欺を成立させる3つの「リミナリティ」
本論文の中心的な貢献は、詐欺が成立するためにはリミナルなアイデンティティ、リミナルな空間、リミナルな文脈という3つの境界性が同時に必要である、という理論的枠組みを提示したことです。
リミナルな空間(Liminal space)
まず土台となるのが空間です。論文はShortt (2015) やDale and Burrell (2008) の定義を引きながら、リミナルな空間を二つの明確な領域の境界にあり、どちらにも完全には属さない場所」「誰の所有物でもない、境界の定まらない場所(no man’s land)として位置づけています。重要なのは、こうした空間には明確なルールや監視者が存在しないという点です。
論文はこの概念を、通過儀礼における「案内人」の役割と結びつけて説明しています。たとえば結婚式では、司会者が新郎新婦を不慣れな儀式の手順のなかで導きます。あるいはヴィクトリア朝時代の海水浴場では、入浴介助人が文明化された陸地と制御できない波という二つの世界の仲介者として、不慣れな客を安心させる役割を担っていました。この「不慣れな人を導く知識ある案内人」という構造そのものが、詐欺師にとって悪用可能な型になります。
- 請求書詐欺の場合:企業同士のバーチャルな取引関係――一度も対面したことがなく、メールだけでやり取りする関係――がリミナルな空間になります。従業員はパスワードで守られたメールシステムを「安全な構造物」だと信じていますが、実際にはLinkedInやTeamsなど複数のプラットフォームにまたがる、誰にも一元管理されていない隙間の中でやり取りが行われています。
- ロマンス詐欺の場合:出会い系アプリという空間そのものが、独身からカップルへという「人生の通過儀礼」を提供する場としてすでにリミナルな性質を持っています。アプリ自体は構造化されていても、そこから始まる関係はオンラインとオフラインの世界をまたぐため、境界的な曖昧さを常に抱えています。
リミナルな文脈(Liminal context)
次に「文脈」は、その空間の中で詐欺師が意図的に作り出す状況・シナリオそのものを指します。論文はゴフマンやモーラーの「コンフィデンスマン(信用詐欺師)」研究を引きながら、詐欺師が被害者にとって未知の投資案件や、実在するかのような偽のビジネス機会を提示することで、被害者を「間違った判断をしても仕方がない状況」に誘い込むプロセスを説明しています。
これはフェルソン(Felson, 2003)が言う「犯罪者収束の場(offender convergence settings)」――加害者と被害者が交差する物理的・仮想的な場――としても位置づけられ、詐欺師はこの場において「よくわからないが、もっともらしいビジネス機会」という文脈を人為的に構築します。
- 請求書詐欺の場合:詐欺師がメールアカウントに侵入した後、単に情報を盗むだけでなく、取引先企業になりすまして「いつも通りの請求書のやり取り」という文脈を演じ続けます。この「普段通りに見える取引」という文脈こそが、従業員に警戒心を持たせないための仕掛けです。
- ロマンス詐欺の場合:文脈は「本物の恋愛関係が発展している」という物語です。詐欺師は、恋愛的な会話と経済的な要求(送金依頼など)のバランスを慎重にとりながら、相手が「これは普通の恋愛のやり取りだ」と信じ続けられる文脈を維持します。この文脈が崩れる瞬間――たとえば送金の話が不自然に感じられる瞬間――こそが、詐欺師にとって最も難しい局面だと論文は指摘しています。
リミナルなアイデンティティ(Liminal identity)
最後に「アイデンティティ」は、この空間と文脈のなかで詐欺師自身が身にまとう偽の人物像です。論文はここでゴフマンの「ドラマトゥルギー(劇場論)」の概念を援用しています。ゴフマンによれば、私たちは社会生活のなかで常に「表舞台(front stage)」の自分を演じ、他者から見られている場面では印象操作を行っています。詐欺師はこの仕組みを意図的かつ徹底的に利用し、「教育者」「案内人」「進行役」といった、その場において信頼されやすい役割を演じます。
論文はこれを「変幻自在なカメレオンになること」と表現しており、モーラー(Maurer, 2000)の研究における「投資話に詳しい紳士」を装う信用詐欺師の姿を例に挙げています。重要なのは、この偽のアイデンティティが固定的なものではなく、その空間・文脈に応じてその都度作り替えられる、流動的で一時的なものだという点です。
- 請求書詐欺の場合:詐欺師は「A社そのものの複製」となり、社内の人間関係や業務フローを熟知しているかのように振る舞う、実在する取引先担当者のなりすましアイデンティティを構築します。
- ロマンス詐欺の場合:詐欺師は「オンラインデーターの一員」という一時的なアイデンティティを身にまとい、さらに進んで企業を狙うケースでは、被害者の過去の交際相手の特徴を模倣した人物像を意図的に作り上げることまで論文では指摘されています。
3つが「重なり合う」ことの意味
論文が強調しているのは、この3つは独立した要素ではなく、互いに支え合って初めて詐欺が成立するという点です。空間の曖昧さがなければ偽のアイデンティティは疑われてしまいますし、もっともらしい文脈がなければ被害者はその空間に留まり続けません。そして、そもそも「知識ある案内人」として振る舞える偽のアイデンティティがなければ、詐欺師は空間や文脈をコントロールする立場に立てません。著者らは、この三位一体の構造こそが、企業や個人が自らの環境のなかにある「危険な境界地帯」を見つけ出し、そこに意図的に監視や規制を及ぼすための出発点になると論じています。
お金だけが目的ではない ― データという「新しい報酬」
もう一つの重要な指摘は、現代の詐欺師が必ずしも即座の金銭的利益だけを狙っているわけではない、という点です。大きな金額を一度に盗み出すことは難しくなっている一方で、個人情報や企業データを手に入れれば、それを元手にローンを組ませたり、商品を購入させたり、さらに大規模な詐欺を仕掛けたりすることができます。著者らはこれを詐欺対象・報酬比率と呼び、データそのものが金銭以上に価値を持つ資源になりつつある現状を描き出しています。
事例1:請求書詐欺(ビジネスメール詐欺)
一つ目の事例として取り上げられているのが、企業を標的とする請求書詐欺です。これは「ビジネスメール詐欺(BEC)」と呼ばれる手口で、多くの場合、実際に対面したことのない取引先とメールだけでやり取りする「バーチャルな取引関係」そのものがリミナルな空間として機能します。従業員は、パスワードで保護されたメールシステムを安全だと信じていますが、実際にはSNSや複数のコミュニケーションツールにまたがる、誰にも一元管理されていない「隙間」の空間で情報がやり取りされています。詐欺師はフィッシングなどでこの隙間に侵入すると、取引先企業になりすまして本物そっくりの請求書を送りつけ、支払い先を自分たちの口座へとすり替えます。
事例2:ロマンス詐欺 ― 個人被害から企業被害への転化
二つ目の事例は、出会い系アプリを舞台にしたロマンス詐欺です。出会い系アプリは、独身から恋人・パートナーへと移行する人生の通過儀礼を提供する場であるという意味で、もともとリミナルな性質を持っています。詐欺師はこの場にオンラインデーターの一員として溶け込み、恋愛感情を利用した心理的な働きかけによって金銭を引き出していきます。
さらに本論文が新たに指摘するのは、被害者本人がやがて共犯者に転化してしまうケースです。詐欺師は出会い系アプリのプロフィールから、標的とする人物の勤務先や役職といった情報を収集し、特定の業界(例えば金融業界)で働く人物に狙いを定めます。恋愛関係が築かれた後、詐欺師は相手の勤務先を最終目標に切り替え、内部の協力者あるいはデータの運び屋として利用しようとします。この場合、実際に金銭的被害を受けるのは相手の勤務先企業であり、出会い系アプリの利用者自身は、気づかぬうちに加害の手先として搾取される立場に置かれてしまいます。
詐欺師が使う4つの「フック」
論文では、詐欺師が被害者を引き込む際の典型的な誘い文句を、4つの類型として整理しています。割引商品や融資への申し込みを装うインセンティブ型、銀行や企業を装って恐怖心を煽る恐怖型、出会い系サイトで金品を引き出す欲求型、そしてパスワード管理の甘さなどにつけこむ脆弱性型です。これらは詐欺師自身の動機ではなく、あくまで被害者がなぜその境界的な空間に足を踏み入れてしまうのかを説明するための枠組みとして提示されています。
この論文の社会への貢献
企業・組織にとっての意義
本論文が示す最大の実践的意義は、「境界にある空間」こそが規制や監視の網から漏れやすい脆弱地点である、という視点を組織にもたらす点にあります。企業のメールシステム、SNS、出会い系アプリはそれぞれ個別のルールで運営されていますが、それらが重なり合う隙間には、誰も責任を持たない領域が生まれます。著者らは、状況的犯罪予防(SCP)の枠組み――努力を増やす、リスクを増やす、報酬を減らす、挑発を減らす、言い訳を取り除く、という5つの戦略――をこのリミナルな空間の管理に応用することを提案しています。具体的には、多要素認証の導入、私物端末での業務利用の禁止、データへのアクセス権限の厳格な限定と暗号化、そして「犯罪者の視点」に立った脆弱性診断(ペネトレーションテストやレッドチーム演習)などが挙げられており、実際に香港の多国籍企業がディープフェイクを使ったビデオ通話詐欺で約25億円相当を失った実例も紹介されています。
政策・規制当局にとっての意義
論文はまた、英国で2023年に成立した「経済犯罪及び企業透明性法」にも言及し、企業が詐欺によって利益を得た場合に「不正防止の失敗」として処罰されうる新制度を紹介しています。ただし著者らは、SNSや出会い系アプリのように現在は規制の外に置かれている業種にこそ、リミナルな空間としての規制強化が必要だと警鐘を鳴らしています。境界的な空間は「誰の問題でもあり、誰の責任でもない」場所になりやすいため、意識的な制度設計がなければ有効な規制が及ばないままになってしまう、という指摘です。
被害者支援・啓発活動にとっての意義
本論文は、注意喚起キャンペーンのあり方にも一石を投じています。「お金を貸すことは盗みと同じだ」といった単純な説教型の啓発は効果が薄いことが知られており、著者らは、リミナルな空間そのものへの気づきを促す問い――「本当に銀行と話しているか、確信はありますか?」といった問いかけや、実際に被害を防げた成功例の共有――がより効果的である可能性を示唆しています。
被害者への向き合い方
さらに重要なのは、本論文が被害者非難を退ける理論的基盤を提供している点です。ロマンス詐欺の被害者が「共犯者」的な役割を担わされてしまう過程は、被害者自身の落ち度ではなく、詐欺師が意図的に作り出した境界的な空間と文脈による構造的な結果として描かれています。この視点は、支援者やカウンセラー、捜査関係者が被害者と向き合う際に、責任の所在を正しく理解するための助けとなるでしょう。
一方で著者らは、この理論があくまで「詐欺がどのように実行されるか」という状況的側面に焦点を当てたものであり、貧困や不平等といった加害者を生み出す構造的要因や、スリルを求める心理的動機を否定するものではないと明記しています。境界的な空間を狭めることがすべての詐欺を防げるわけではありませんが、行政・企業・個人が「知識ある行為者」としての立場を取り戻すための、実践的な第一歩を示す論文だといえます。
用語解説
リミナリティ(Liminality)/リミナルな空間(Liminal space) 文化人類学者ヴィクター・ターナーらが用いた概念で、もともとは通過儀礼における「古い状態を離れたが、まだ新しい状態には到達していない」宙ぶらりんの時期を指す言葉です。本論文では、二つの明確な領域の境界にあり、どちらにも完全には属さず、明確な所有者やルールを持たない「誰のものでもない空間」という意味で用いられています。
知識ある行為者(Knowledgeable actor) 不慣れで曖昧な空間において、その場のルールや進め方を知っている立場から他者を導く役割を担う人物のことです。結婚式の司会者のような正当な役割としても機能しますが、詐欺師がこの立場を偽って乗っ取ることで、被害者を巧みに誘導する手口としても使われます。
不正のトライアングル(Fraud Triangle) 犯罪学者ドナルド・クレッシーが1950年代に提唱した理論で、不正行為が起きるには「(誰にも言えない)圧力」「機会」「正当化」の3要素が揃う必要があるとする考え方です。
ビジネスメール詐欺(BEC:Business Email Compromise) 取引先や経営者になりすましたメールを送りつけ、従業員を騙して送金先を詐欺師の口座に変更させる手口です。請求書詐欺や、CEOを装う「CEO詐欺」もこの一種です。
状況的犯罪予防(SCP:Situational Crime Prevention) 犯罪者の内面や動機ではなく、犯罪が起きる「状況」や「環境」そのものを変えることで犯行を防ごうとする犯罪予防の考え方です。本論文では「努力を増やす」「リスクを増やす」「報酬を減らす」「挑発を減らす」「言い訳を取り除く」という5つの戦略が紹介されています。
データミュール/インサイダー脅威 詐欺師に操られ、意図的または無自覚のうちに、勤務先企業の内部データや口座情報を外部に流出させる役割を担わされてしまった人物を指す言葉です。
| タイトル | The Liminality of Fraud: Reimagining Fraud Theory to Inform Financial Crime Prevention(詐欺のリミナリティ―金融犯罪予防に資する詐欺理論の再構想) |
| 論文の種類 | ジャーナル論文(査読付き学術誌) |
| 論文の分野 | 犯罪学、詐欺研究、被害者学、金融犯罪防止 |
| 著者 | Nicola Harding(ランカスター大学 犯罪学部) Emily Cooper(セントラル・ランカシャー大学 法学・警察学部) Tony Sales(We Fight Fraud) Andy McDonald(We Fight Fraud) Sarah Kingston(セントラル・ランカシャー大学 法学・警察学部) |
| 論文誌名・発行者 | British Journal of Criminology,Oxford University Press(Centre for Crime and Justice Studies (ISTD) の後援による) |
| 発行日・巻数・ページ | 2025年、第65巻第3号、618–638頁(オンライン先行公開:2024年10月22日) |
| 原著論文の言語 | 英語 |
| URL | https://academic.oup.com/bjc/article/65/3/618/7831281 |
| Cite | Harding, N., Cooper, E., Sales, T., McDonald, A., & Kingston, S. (2025). The liminality of fraud: Reimagining fraud theory to inform financial crime prevention. The British Journal of Criminology, 65(3), 618–638. https://doi.org/10.1093/bjc/azae069 |

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