The Mental Health Impacts of Internet Scams (ネット詐欺のメンタルヘルスへの影響)
Luke Balcombe
この論文は、展望論文といって、データを使って仮説検証するものではなく、既存の知見を整理して著者の視点から論点を整理するというものです。更に、著者でデジタルメンタルヘルス(DMH) の研究者であるBalcombe先生自身が投資詐欺の当事者であるということから、解釈が自身の経験に影響を受けている可能性はありますが、被害当事者の視点からの論文ということが非常に意味深いものとなっています。
要約
オーストラリア・グリフィス大学 オーストラリア自殺研究予防研究所/応用心理学スクールのLuke Balcombe先生による論文 “The Mental Health Impacts of Internet Scams”(『ネット詐欺のメンタルヘルスへの影響』)は、ネット詐欺が被害者の心に与える影響を明らかにすることを目的とした展望論文(パースペクティブ)です。著者は、既存研究とメディア報道を対象としたナラティブ・レビューと、著者自身が当事者として巻き込まれたオーストラリアの投資詐欺グループ(25名)の事例研究とを突き合わせるという方法をとりました。その結果、ネット詐欺は抑うつ、不安、トラウマ、孤立といった感情面・社会面の問題を引き起こし、とりわけ大きな金銭的損失を被った人ではそれが長期化することが示されました。著者は、被害者が十分な支援やメンタルヘルスケアにアクセスできていない現実を指摘し、教育・レジリエンス(回復力)の育成・支援体制の強化に加えて、感情に配慮したトラウマ・インフォームドなAIによる「デジタルの伴走者」の可能性を提案しています。研究者自身が被害当事者であるという立場から書かれている点が、この論文の際立った特徴です。
研究方法
この論文の「種類」を先に押さえる
本稿は通常の実証論文ではなく、パースペクティブ(展望論文)という形式です。データを厳密に検証して仮説を検証するというより、既存の知見を整理し、著者の視点から論点と今後の方向性を提示することを目的としたジャンルにあたります。読み方としては、確定した事実の報告というより現場からの問題提起として受け取るのが適切です。
その上で、著者は2つの異なるアプローチを組み合わせています。
アプローチ①:ナラティブ・レビュー(文献の物語的な整理)
まず、ネット詐欺と精神的影響に関する既存の文献を集めて整理しています。手順はDemiris先生らの4段階(①複数のデータベースと検索エンジンで検索する、②関連論文から適切なキーワードを抽出する、③要旨と本文を確認して研究目的に合うものを採用する、④結果を要約・統合して記述する)に沿っています。
- 検索したデータベース:Scopus、ScienceDirect、Sage、ACM Digital Library
- 検索エンジン:PubMed、Google Scholar、IEEE Xplore
- 検索語:「internet scams」または「cybercrime」または「investment scams」と、「mental health impact」または「psychological impact」の組み合わせ
- 対象期間:2010〜2025年、英語で書かれたもの
- 対象の種類:査読付き学術論文に加えて、メディア記事も含む
ここで重要なのは、著者が最初から「系統的レビュー(システマティック・レビュー)」を断念していることです。予備調査の段階で、厳密な基準を満たす研究がそもそも足りないと判断されたため、代わりにテーマに関連する文献を著者の判断で選び出す方法(有意抽出)が採られました。これは網羅性を犠牲にする代わりに、多様な視点を柔軟に取り込む方法です。裏を返せば、どの文献を選ぶかに著者の判断が入る余地があるということでもあります。
アプローチ②:内在的事例研究(一つの事例を深く掘り下げる)
もう一方の柱が、教育学者Stake先生の提唱した内在的事例研究です。これはその事例そのものが本質的に興味深いから調べるという立場の質的研究で、一般化できる法則を導くことよりも、特定の文脈で何が起きていたのかを解釈的に理解することを目指します。
事例研究は次のように進められました。
- アーカイブ調査:メディア記事、参考人の供述、警察の捜査担当者や関係者との会話、金融・法務関連の書類を確認し、手口の変遷と被害者への影響をたどる。
- 質問紙調査(25名):警察の捜査担当者から提供されたメールアドレスを通じて被害者に配布。金銭面と精神面の影響について尋ねた。
- 詳細なインタビュー(3名):電話により、感情が動くきっかけと心理的な帰結を聞き取り。
- テーマ的コーディング:語られた内容から繰り返し現れるテーマを抽出。
- メンバーチェック:別の被害当事者に内容を確認してもらい、解釈のズレを点検。
倫理面については、著者自身が被害者であり同時に研究者でもあることを参加者に伝え、参加は任意で被害者から被害者へ/研究者へという関係で行われることを明示した上で、メンタルヘルス支援と危機対応の連絡先を参加者に提供したと記載されています。
なお論文末の記載では、倫理審査委員会(IRB)の承認とインフォームド・コンセントの手続きはいずれも該当なし(Not applicable)とされ、資金提供は受けておらず、利益相反はないと申告されています。
この研究でわかったこと
被害の規模と、氷山の一角しか見えていない現実
まず前提として示されるのが、被害の規模です。詐欺による損失は2023年に世界で1兆米ドルを超えたとされます。しかしそれ以上に重いのが、報告率の低さです。2022年の「Global State of Scams Report」によれば、通報されている詐欺は全体のわずか7%にすぎません。
つまり私たちが統計として目にしている数字は、実際に起きていることのごく一部でしかない、ということになります。この「通報されなさ」の背景に、恥や自責の感情があることは、後述の心理的影響と地続きの問題です。
手口の高度化──技術と心理の両面から
論文が整理する手口は、技術面と心理面の両方にまたがります。
技術面では、銀行・企業・公的機関へのなりすまし、個人情報を狙うフィッシング、偽サイトの構築、偽の投資話、切迫感の演出、当選詐欺、サポート詐欺、ロマンス詐欺などが挙げられます。近年はさらに、音声クローン、ディープフェイク、チャットボット、データ追跡とターゲティング広告、実在する金融商品のクローンといったAI技術の悪用が加わっています。
心理面では、なりすましと偽の「社会的証明」(多くの人が使っている・信頼しているように見せかける手法)、そして正規の手続きに見せかけた送金指示や送金先のすり替えが指摘されています。
人が詐欺に応じてしまう要因として論文が挙げるのは、経済的な切迫、短期間で豊かになれるという誘い、ソーシャル・エンジニアリング(人の心理を突く働きかけ)、正当性を装う演出、巧妙化した手口への知識不足、感情のトリガー、信頼の悪用、そして多忙な生活のなかで確認が疎かになることです。ここで大切なのは、これらが特定の人だけが持つ「弱さ」ではなく、誰にでも起こりうる条件として並べられている点です。
誰もが標的になる
年齢層についての知見は、単純ではありません。高齢者が金融サイバー犯罪のリスクにさらされているという警告がある一方で、オンライン詐欺に限れば高齢者の被害率は他の年代より必ずしも高くないという報告もあります。ある系統的レビューは、高齢者がオンライン詐欺の被害に遭いやすいとしつつ、その理由を認知機能、他者への信頼、インターネット経験の少なさ、そして「ネットがどう人を欺くために使われるか」についての知識の少なさに求めています。
他方で若年層も無縁ではありません。オーストラリアでは10代の4人に1人がSNS上の詐欺(性的画像を用いた脅迫、偽サイト、フリマ取引の詐取など)の被害に遭っているという報道が紹介されています。
そして詐欺グループの側は、対策の状況を見ながら手口を調整し、心理的な脆弱性・認知バイアス・自信過剰を、切迫感の演出や関係構築を通じて突いてきます。知っていれば防げるという単純な図式が成り立ちにくいのは、このためです。
先行研究が示す心理的影響と、その空白
既存研究のレビューからは、被害者に生じる影響として、強い苦悩、不安、抑うつ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、そして自殺念慮までもが報告されています。感情面では恥、罪悪感、怒り、無力感、恐怖が繰り返し現れます。
分野ごとの偏りも指摘されます。これまでの研究の中心は、金融犯罪や技術の観点から「詐欺がどう機能するか」を解明することにあり、詐欺サイトの検知や、加害者・被害者の行動分析に焦点が当てられてきました。心理面の研究としては、時間的な切迫を伴うやりとりに応じやすい人が被害に遭いやすいという系統的レビューがあり、気分や感情が詐欺への関与にどう影響するかを調べる必要性が提起されています。
ロマンス詐欺はこの分野で最も研究が進んでいるものの、レビュー論文はまだ研究不足だと評価しています。通報率が低い理由は、恥ずかしさや、周囲から責められることへの恐れです。家族や友人からの理解を得られないまま、被害者が一人で対処法を探す -そうした孤立した経験が報告されています。また、被害によって社会から取り残されたと感じ、深い感情の変化が持続して自己調整が難しくなる状態も指摘されています。
さらに、ある横断研究では、ネット詐欺の被害と精神的不調の関連に加えて、精神的な状態が良くない人ほど被害に遭いやすい可能性も示唆されました。ただし著者は、この研究では因果関係は立証されていないこと、影響がどれだけ長く続くのかも不明であることを明記しています。金銭的損失が既存の不調を悪化させたり、新たな不調を引き起こしたりする可能性がある、という段階にとどまります。
事例研究──「債券・定期預金」を装った投資詐欺
2023〜2024年、オーストラリアの投資家25名が、国際的な組織による巧妙なネット詐欺の被害に遭いました。手口の流れは次のとおりです。
- 定期預金や債券をオンラインで検索するという行動が起点になる。
- その検索履歴(デジタル・フットプリント)をもとに、GoogleやFacebookの広告経由で偽サイトへ誘導される。
- 入力された連絡先が「投資アドバイザー」に渡り、電話とメールで接触が始まる。彼らはオーストラリアの金融サービス免許を持つ実在の事業者になりすましていた。
- 時間をかけて信頼関係を築き、本物らしい投資ガイドやオンラインの取引画面を提示。
- 「エスクロー口座(第三者預託口座)」への送金を指示。実際にはマネー・ミュール(送金の中継役)が資金を別の個人・法人、外貨両替業者、暗号資産のプラットフォームへ転送していた。
被害者たちが互いの存在を知ったのは、ある警察の捜査担当者が全国の25名を探し出し、2024〜2025年にメールと電話で結びつけたときでした。著者のBalcombe先生もその一人でした。
金銭的な被害は一様ではなく、多額を失った人、比較的少額にとどまった人、送金の取消や銀行による組戻しが成功して大きな損失を免れた人が混在していました。
心の影響には「時間の形」がある
この事例研究のもっとも実務的な発見は、症状ごとに持続期間が異なるという点です。
| 症状 | 経過 |
| 不眠 | 一時的。銀行の組戻しの結果を待つ1〜2か月程度 |
| 不安・抑うつ(大きな損失を被った人) | 長期化。金融機関やADR機関の対応への不満、捜査の遅れ(捜査される場合、最大2年)によってさらに悪化 |
| 不安・抑うつ(組戻しに満足した人) | 1〜2か月程度で軽減 |
| PTSD | 金銭的損失の大小にかかわらず、詐欺から1〜2年後もなお持続していることが多かった |
被害を知ってからの数か月間には、持続する悲しみ、興味・関心の喪失、パニック様の感覚、過剰な心配といった、抑うつと不安の典型的な症状が報告されました。多額の損失から1〜2年経った時点でも、抗うつ薬などの向精神薬を服用して対処している人がいました。
さらに、騙されたという恥の感情から社会的な交流を避けるようになり、孤立感・孤独・絶望、さらには人間関係の破綻に至ったケースが、被害から1〜2年の範囲で報告されています。出来事を繰り返し思い返してしまう「反芻」がこれらの感情を増幅させ、日常生活を難しくしていました。お金の安全と個人情報が、常に不安の種になっていったといいます。
そして支援の側から見て重要なのは、被害を認識した最初の数か月に医療機関でメンタルヘルスケアにつながった人は少数派で、大半はつながっていなかったことです。一方で、同じ被害に遭った仲間と経験を分かち合うことに救いを見出した人もおり、その分かち合いは被害から1〜2年経ってから起きたケースもありました。
制度の対応そのものが、回復を左右する
事例研究のもう一つの柱が、金融機関と紛争解決機関への評価です。被害者グループは、銀行およびAFCA(オーストラリア金融苦情機関)による調査・苦情処理のあり方に不満を抱き、それが金銭面の被害状況を一覧表にまとめる動機になりました。そこで共有されたのは、これらの機関から真摯な検討、支援、説明責任、共感が十分に感じられなかったという受け止めです。
これは「被害の後に何が起きるか」が回復の質を左右することを示しています。制度的な対応の遅さや冷淡さは、単なる手続き上の問題ではなく、不安と抑うつを長引かせる要因として作用していました。
デジタルメンタルヘルスとAI──提案とその留保
著者は、専門職の不足や既存の治療の限界を踏まえ、デジタルメンタルヘルス(DMH)サービスの可能性に注目します。恥や気まずさを抱えた被害者が、人目を気にせず感情の立て直しに取り組める場になりうる、という発想です。
AIチャットボット(Wysa、Youper、Woebotなどが例示されています)は不安や抑うつに対して費用対効果の高い支援を提供でき、利用者の関与という点でも良好な結果が報告されているとされます。生成AIによるセラピー・チャットボット「Therabot」のランダム化比較試験でも、初期段階では有望な結果が出ています。
ただし著者自身が、いくつもの留保を並べています。24時間利用できる一方で対面の人間的な共感には及ばないこと、プライバシー・データセキュリティ・アルゴリズムのバイアスといった課題、複雑な感情への対応の限界、そして生成AI特有の「ハルシネーション(もっともらしい誤情報の生成)」の問題です。危機的状況では人による介入が必要になることも明記されています。
著者が最終的に提案するのは、当事者の経験に根ざし、感情に細やかに応答し、トラウマ・インフォームド(心的外傷への理解に基づく)な「AIの伴走者」であり、被害者が感情を立て直す過程を共に支える共制御(co-regulation)を重視すべきだという方向性です。ただしこれは実証された成果ではなく、今後開発されるべき提案として提示されています。
読み解く上での留意点
公正に読むために、この論文の性格上の制約も併せて押さえておきたいところです。
当事者研究としての強みと弱み。 著者自身が被害者であることは、外部の研究者では届かない内側の視点をもたらす一方、解釈が自身の経験に引きずられる可能性を伴います。著者はメンバーチェックによってこれに対処していますが、確認者も同じ被害グループの一員です。
事例の規模と一般化の範囲。 質問紙25名・インタビュー3名という規模で、対象はオーストラリア在住の成人被害者、しかも警察が把握した一つの事件の関係者に限られます。ここから得られた知見は、日本を含む他の文脈にそのまま当てはまるものではなく、仮説として受け取るのが適切です。
倫理審査の記載。 倫理審査委員会の承認とインフォームド・コンセントがいずれも「該当なし」とされている点は、人を対象とした質的データ収集を含む研究としては、読者が認識しておくべき情報です
メディア記事を文献として扱っている。 ナラティブ・レビューの対象に報道記事が含まれるため、査読を経た知見と報道由来の記述が同じ流れのなかに並びます。引用元の性質を意識しながら読む必要があります。
AIに関する提案と著者の研究領域。 著者はデジタルメンタルヘルスとAIチャットボットを主要な研究領域としており、本文でもその自著が引用されています。利益相反はないと申告されていますが、結論部分の提案は著者自身の研究関心と重なる方向を向いている、という文脈は知っておいてよいでしょう。提案の当否とは別の話です。
こうした制約があってなお、この論文が持つ価値は損なわれません。厳密なエビデンスが積み上がるのを待っていては見えてこない、被害の「時間的な形」を記録したという点にこそ、意義があるからです。
この論文の社会への貢献
「いくら失ったか」から「何を失ったか」へ
詐欺の被害は、長らく金額で語られてきました。統計も報道も、被害総額という一つの数字に集約されがちです。この論文が最初に行うのは、その枠組みを外すことです。
事例研究が示したのは、PTSDが金銭的損失の大小と必ずしも連動しないという事実でした。組戻しが成功して大きな金額を失わずに済んだ人にも、1〜2年後まで続くトラウマ反応が見られたのです。「お金が戻ったのだから解決した」という発想が、いかに被害の実態からずれているかを、この知見は端的に示しています。
支援の現場では、被害額の多寡で支援の必要度を判断しない、という原則の裏づけとして使える知見です。
支援が届いていない「空白期間」を可視化した
この論文がもっとも実務に近い貢献をしているのが、時間軸の記述です。
被害を認識した直後にメンタルヘルスケアにつながった人は少数で、多くはつながっていませんでした。一方で症状、とりわけPTSDは1〜2年にわたって続いていました。ここには明確なミスマッチがあります。支援が必要とされる期間と、支援が提供される(あるいは被害者が助けを求める)期間がずれているのです。
そして、仲間と経験を分かち合うことで救われた人がいて、その分かち合いが被害から1〜2年後に起きたケースもあった、という記述も見逃せません。これは、事件対応が一段落した後にこそ支援の入り口が必要になる場合がある、という示唆になります。行政や支援団体の支援設計は、しばしば「事件直後の数か月」を想定して組まれますが、この論文はその想定を問い直すよう促しています。
制度対応の質そのものが、回復の要因である
被害者グループが金融機関やAFCA、警察の捜査に抱いた不満は、単なる利用者の感想ではありませんでした。論文は、こうした対応への評価が不安と抑うつの長期化と結びついていたと記述しています。
これは、金融機関、ADR(裁判外紛争解決)機関、捜査機関にとって重い示唆です。手続きの正確さや最終的な結論とは別に、説明の丁寧さ、経過の共有、対応の速さといった「関わり方」そのものが、被害者の健康に影響するということだからです。制度側の対応は、事後処理であると同時に、二次的な被害を生むか回復を助けるかの分岐点にもなっています。
「なぜ警察に届け出ないのか」への答え
届け出られている詐欺が全体の7%にすぎないという数字と、恥や周囲からの非難への恐れが届け出を妨げているという知見は、対で読むべきものです。
被害の実態が統計に表れないと、政策の優先順位も、予算配分も、対策の効果測定も、すべて過小な前提の上に組まれてしまいます。被害者を責めない社会的な空気をつくることは、思いやりの問題であると同時に、統計精度と政策設計に関わる実務的な課題でもあるのです。
「なぜ気づかなかったのか」という問いかけは、それを向けられた一人の被害者を沈黙させるだけでなく、社会全体が実態を把握する回路を細らせていきます。
テクノロジーは万能ではないが、選択肢を増やす
AIによる支援という提案は、まだ検証の途上にあります。それでもこの論文が投げかけているのは、「専門職の数が足りない」「恥ずかしくて相談できない」「深夜に一番つらくなる」といった、現実に存在する障壁をどう越えるかという問いです。
対面の支援を置き換えるものとしてではなく、支援につながるまでの距離を縮める入り口として、あるいは支援と支援の間の時間を埋めるものとして、何が使えるか。ハルシネーションやプライバシーの課題を含めて、慎重に検討していく価値のある論点だと言えます。
日本の読者にとっての意味
この研究はオーストラリアの一事例に基づくものであり、日本の状況にそのまま当てはめることはできません。それでも、手口の構造には強い既視感があります。検索行動を起点とした広告からの誘導、実在する金融事業者へのなりすまし、時間をかけた信頼関係の構築、そして暗号資産や複数の口座を経由した資金の移動——SNS型投資詐欺として日本で報告されている流れと同様のものです。
そうであるならば、被害の後に何が起きるかについても、参照する価値は十分にあります。恥の感情による社会的な引きこもり、家族関係への波及、そして年単位で続くトラウマ反応。これらは、日本において自己責任という言葉が被害者に向けられがちな環境では、より深刻な形をとる可能性すらあります。
行政の担当者にとっては、支援施策の時間設計を見直す材料になります。捜査機関にとっては、捜査の進捗共有そのものが被害者の健康に関わるという視点を提供します。金融機関にとっては、組戻しの成否だけが被害者の回復を決めるわけではないという事実が示されます。支援者・カウンセラー・医療者にとっては、被害から1〜2年という、これまで視野に入りにくかった時期のケアの必要性が浮かび上がります。そして被害に遭われたご本人とご家族にとっては、いま感じている苦しさが年単位で続きうる自然な反応であり、決してあなた一人の弱さの表れではないということを、この論文は静かに裏づけています。
騙す技術は日々進歩しています。誰もが標的になりうるという前提に立てば、次に必要なのは「引っかからない人」を増やすことだけではなく、被害に遭った後に、その人が安心して声を上げ、回復に必要な時間を確保できる社会をつくることです。この論文は、その時間がどれくらいの長さなのかを、当事者の言葉から具体的に示してくれました。
なお、この記事で扱ったテーマはこころの負担に触れるものです。もしお読みになる中で、ご自身やご家族について不安を感じられた場合は、どうか一人で抱え込まず、医療機関や相談窓口、信頼できる方にお声がけください。時間が経ってからつらさが出てくることも、この研究が示すとおり、少しも珍しいことではありません。
用語解説
パースペクティブ(Perspective/展望論文) 学術誌に掲載される論文の一形式で、新しいデータの検証よりも、既存の知見の整理と著者の視点からの論点提示を目的とするものです。研究の空白領域に光を当てたり、今後の方向性を提案したりする役割を担います。実証論文とは求められる基準が異なるため、結論の受け取り方にも違いが出ます。
系統的レビュー(システマティック・レビュー)とナラティブ・レビュー 系統的レビューは、あらかじめ決めた明確な基準に従ってすべての関連研究を漏れなく集め、偏りを抑えて統合する方法です。一方ナラティブ・レビューは、研究者が関連する文献を選んで一つの物語として整理する方法で、網羅性は劣るものの、研究がまだ少ない新しいテーマを柔軟に扱えるという利点があります。
有意抽出(purposive sampling) 研究目的に照らして「これは重要だ」と判断したものを研究者が意図的に選ぶ方法です。無作為に選ぶ方法と違って偏りが入りやすい反面、限られた事例から深い理解を得たいときに用いられます。
内在的事例研究(intrinsic case study) 「この事例そのものを理解したい」という関心から行われる事例研究のことです。そこから一般的な法則を導くことを主目的とせず、ある出来事が特定の文脈でどのように経験されたのかを丁寧に描き出します。
メンバーチェック 質的研究において、研究者がまとめた解釈を調査対象者本人に確認してもらい、実感とずれていないかを点検する手続きです。解釈の妥当性を高めるための工夫の一つです。
テーマ的コーディング(thematic coding) インタビューや自由記述の回答を読み込み、繰り返し現れる内容にラベルを付けて分類し、そこから共通する主題(テーマ)を浮かび上がらせる分析手法です。
横断研究(cross-sectional study) ある一時点で複数の要素を同時に測定し、その関連を調べる研究デザインです。「AとBに関係がある」ことは示せますが、「AがBを引き起こした」という順序関係までは示せません。本論文でも、精神的な不調と詐欺被害の関連について、因果関係は立証されていないと明記されています。
PTSD(心的外傷後ストレス障害) 命の危険や強い衝撃を伴う出来事の後に、その記憶が意図せず繰り返しよみがえる、関連するものを避ける、常に緊張が続く、といった状態が長く続くものを指します。本論文の事例では、金銭的損失の大小にかかわらず1〜2年後まで持続していたと報告されています。
反芻(rumination) 起きてしまった出来事について、「あのときこうしていれば」と同じ考えを何度も繰り返し思い返してしまう状態です。抑うつや不安を長引かせる要因として知られています。
マネー・ミュール(money mule) 詐欺で得られた資金を、自分の口座を経由して別の口座へ送金する役割の人を指します。組織の中核から資金の流れを遠ざけ、追跡を困難にするために使われます。本人が事情を知らずに関与してしまう場合もあります。
エスクロー口座(第三者預託口座) 取引の安全のために、第三者が一時的に資金を預かる仕組みです。正規の商取引でも使われますが、詐欺では「安全な口座」という印象を与えるための言葉として悪用されます。
ソーシャル・エンジニアリング システムの技術的な弱点ではなく、人の心理や行動の傾向を突いて情報や金銭を引き出す手法の総称です。信頼、権威、切迫感などを利用します。
社会的証明(social proof) 「多くの人がそうしている」という情報が判断に影響を与える心理的な傾向のことです。詐欺では、偽の利用者の声や実績を並べることでこの傾向が悪用されます。
AFCA(Australian Financial Complaints Authority/オーストラリア金融苦情機関) オーストラリアで金融サービスに関する苦情を裁判外で処理する機関です。日本の金融ADR制度に近い役割を担っています。
NASC(National Anti-Scam Centre/国家詐欺対策センター) オーストラリアが設立した、詐欺対策の情報を集約し関係機関の連携を進めるための組織です。
デジタルメンタルヘルス(DMH) スマートフォンアプリ、オンライン相談、チャットボットなど、デジタル技術を用いて提供されるメンタルヘルス支援の総称です。
トラウマ・インフォームド(trauma-informed) 支援にあたる側が、相手がトラウマを抱えている可能性を前提として、再び傷つける事態を避けるよう配慮する考え方です。「何が問題なのか」ではなく「何が起きたのか」という問いの立て方に象徴されます。
共制御(co-regulation/コ・レギュレーション) 自分一人では感情を立て直すことが難しいときに、落ち着いた他者と関わることを通じて、その人の安定を借りながら気持ちを整えていく過程を指します。
ハルシネーション(hallucination) 生成AIが、事実ではない内容をもっともらしい形で出力してしまう現象のことです。メンタルヘルス領域での利用においては、特に慎重な検討が求められる課題とされています。
ランダム化比較試験(RCT) 参加者を無作為に複数のグループに分け、介入の効果を比較する研究デザインです。効果検証の方法としては信頼性が高いとされます。
| タイトル | The Mental Health Impacts of Internet Scamsネット詐欺のメンタルヘルスへの影響 |
| 論文の種類 | ジャーナル論文(査読付き学術誌に掲載されたPerspective=展望論文) |
| 論文の分野 | 公衆衛生学、精神保健学(メンタルヘルス)、被害者学、犯罪学、デジタルヘルス |
| 著者 | Luke Balcombe(グリフィス大学 応用心理学スクール オーストラリア自殺研究予防研究所、オーストラリア・クイーンズランド州マウントグラバット)MDPI(スイス・バーゼル) |
| 論文誌名・発行者 | International Journal of Environmental Research and Public Health (IJERPH) |
| 発行日・巻数・ページ | 2025年6月14日公開(受理:2025年6月10日)、第22巻 第6号、論文番号938、全13ページ |
| 原著論文の言語 | 英語 |
| URL | https://www.mdpi.com/1660-4601/22/6/938 |
| Cite | Balcombe, L. (2025). The mental health impacts of internet scams. International Journal of Environmental Research and Public Health, 22(6), 938. https://doi.org/10.3390/ijerph22060938 |

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